『ローレライ』
必然、一見ストーリーには関わりのない登場人物の過去、人生観が大きな意味を持ち、映画化の際にも欠くことのできないパーツとして描写を要求してきます。
今だからそう分析できるのだが、当時はわたしも樋口もそれを明文化する術がなく、『ローレライ』は『イージス』以上の大長編、映画化困難な原作として完成する羽目になった。
それでも乗りかかった船と試行錯誤をくり返し、結果的にたどり着いたのが「状況を後退させ、ドラマを前面に立てる」方法。
終戦期の日本という状況、そこから紡がれるストーリーは薬味程度に留め、もっぱら登場人物の意志と行動に寄り添うというものだった。
タイトルから「終戦の」が外された一事が、それを象徴しています。
そこからすべてが組み直され、劇中歌の変更を始め、映画化への道筋が明確になっていったのです。
それは戦争の引力に娯楽の要素が押し潰され、市場のニーズを無視した映画になるのを危惧したからでもあるが、あらためて観ると、状況を匂わせる生々しいセリフ(監督言うところの福井節)はかなり残っています。